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うーむ。それなりに充実した毎日を過ごしてはいるのだが、なんか違う気もしている。
たとえば仕事ちゃんとやって休みに歯医者行ってお役所関連の雑務片付けて美容院行って、気になってた消耗品買いたして爪の手入れして部屋片付けて、さっぱりした気持ちで週明けからまた仕事に行く。
そういうことってすごく大切なことだとはわかってるんだけど、なんか・・・A型っぽいっていうかさ。パンチが足りない気がします。
ほんとは岡本太郎みたいに、爆発だー!とか言って、奇行に走ってみたい自分がいる。北杜夫も「うん、あの人は躁鬱病だよね。しかも絶対一味違ったそれっぽいよね」って誰もを納得させていたあたり、羨ましい。
結局目立ちたがりなのか・・・その一言で済んでしまうのか。言葉ってきらい。大抵の現象や状況を説明できる言葉がもう既に存在することに、それに当てはめられてしまうことに、時々けっこう耐えられなくなる。
なんかこうやって書くと陳腐だなあ・・・悲しいほどに陳腐だわ。同郷のスター錦野のようだ(※あの人はきらいじゃないです、念のため)。半端に芸術系の血が流れてるからな・・・そういう意味では某紙会社のギャンブルぼっちゃまとかも、環境がそれを許したって点で、彼だけの罪ではないかもなと少し思う。何世代も続けてカリスマ性や才能や、何かそういう傑出したものが同じ血から出ることって、そうそうあることじゃないもんね。
あーまたしてもなにが言いたいのかわからなくなってきた。つまりあれです、みんななんか、血の流れの中にふわふわ浮いてるでしょ。最初から。それで遺伝子がどんどんコピーされて、似て非なるモノがその流れの中をそれぞれに一生懸命泳いでいる。一生懸命泳ぐんだけど、でも血の流れって強くて速くて、けっこう抗いがたいもんだなあと思うんですよ。目に見えるわけでもないのに、明らかに大きな力を感じる。天皇家の人とか、もっとそうなんだろうなあ。
つまり今の私は、少し自分について振り返る時間ができると、自分の圧倒的な凡庸性に対して、自分のささやかな芸術性が、絶望したり呆れたり怒ったりしてすぐ喧嘩をふっかける感じで、それは私にはなかなか制御できない内紛なのでした。
「可及的すみやかさん」と「永久(とわ)にさん」を頭の中に住まわせては振り回されていたストンストンの気持ちが、今となっては全然違う意味でよくわかる。アラエッサくらい開き直って世俗的になりまくれれば、いっそ楽なのかもしれないねえ。でもやはり私はキラップ女史に憧れていたからな。シルバー王妃になれないのなら、キラップ女史かダマーニナしかないと思っていた。うーむ、振り返れば興味ぶかい、児童文学と私の心理。
ここまでの数行が意味不明だった方は福永令三氏のクレヨン王国シリーズをぜひどうぞ。やっぱり「12ヶ月」あたりからが順当かしら。ものによっては児童向けですが、ものによってはおそろしく大人向けです。
そういえばムーミンを全巻読破したいんだった。年内にできるかなあ。っていうか、今年は仕事納めが遅い。年賀状が大変不安!出せない気がする、出せない気が!・・・とか、今から言ってちゃ、だめよね。A型らしくこつこつ早めに準備しよーっと。で、芸術肌の私が顔を出して内紛となって準備が間に合わなかった場合は、年賀状は爆発だー!と叫ぼう。新年早々そう叫ぼう。あ、なんかちょっと、来年が楽しみになってきたかも。ネ。
| のたりのたり | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0)
 すんごい不吉だけどすんごい誰かに言いたい内容の夢を見た。同じような類のなぞなぞも思いついてしまった。ああ言ってしまいたくてたまらない。でも言霊を信じているので言えない。自分との闘い。これを乗り越えたら私はちょっと大人になっているはずだ!・・・と、思う。
 そんな「言いたい誘惑」と闘いつつ、日曜日は親戚一同の大飲み会に参加。相変わらずむちゃくちゃに楽しいのであった。しかもそれに値するようなことを何ひとつ(本当に何ひとつ!)していないのに、ごちそうとか本とかDVDとかダイヤのペンダントとか絵画とかが空から降ってきた。地上の楽園であった。そこでは衣服を着る必要もないほど人間は赦された存在であるので、痛風や糖尿病や高血圧やがんの血が脈々と流れている面々であるにもかかわらず、盛大に、なんの制限や良心の呵責もなく、飲み食いをした。ダイハツ関係者がいたため「TNB!」とか言いながら(※糖尿病)、全員で。しかしお開きの頃にはさすがにみんな我に返り、「明日は絶食だね」と言い合ったにもかかわらず、翌日そのうちの何人かで再び集い、気づいたら銀座でランチを食べていた!その後ケーキを買って家でアフタヌーンティーをした!ばかばか私たちのばかー!・・・でもおいしかったし楽しかったから、ああいう時に摂取したものは仮にコレステロールとかになるとしても、きっと善玉になるに違いない(←文系人間の無知の幸せ)。一時の楽園生活を満喫した週末であった。
 それに対して、現実のほうはほんとにひどいですね。あ、原発とか地震とかああいうやつね。世紀末が遅れてきたんじゃないかという感じですね。立川でヴァカンスしてるブッダとイエスに直訴しに行きたいくらいだわ。でも直訴するならまず新橋にある東京電力本店か。
 やっぱり何かを見過ごしたり見逃したりしてはいけないんだな。そのためには常に自分の観点を疑って、上から右から下から左から、ためつすがめつする必要があるんだろうな。だけど本当に必要な時にそうするためには、正しく休むことも等しく大切だよなあ。
 責任をとれる、かつ能力のある社会人として機能することって、たかが人間である私たちにとっては、可能か不可能か、ぎりぎりのラインな気がする。だからこそ、自分の器に合ったサイズの仕事に就けるか否かが分かれ道なのかもねえ。だけど自分の器を見定めることも本当に難しいからな。
 このあたりでいっつも思考が止まってぐるぐるし始める。悪循環に陥るのはほんとに簡単で困ってしまう。だからきっと大切なのは、謙虚でありながらポジティブさを失わないことだ、と、思う。
 ところで最近、SNSはフェイスブックの時代らしい。もうみんな、mixiとかあんまのぞかないらしい。だけどフェイスブックに関しましては巨大なジレンマがありまして、そう簡単に始める気になれない。理由は一にも二にも三にも、留学時代の知人や同級生に見つけられたらどうしようという、それに尽きる。それくらい黒歴史だったのです・・・高校の時は宗教のことで揉めに揉めたし(あくまで私の心理内だけで起こっていた揉め事だけど)、大学では高校の時のストレスを引きずった結果、ろくに友達に挨拶もできないまま中退&帰国しちゃったし。見つけられたら困る人もいれば、見つけられたら言葉を尽くして謝らなきゃいけない人もいる。ある意味パンドラの函。そしてそれを開けたが最後、大量の英作文が必要となりますよねえぇ。そんな時間と余裕、今の私にあるのかどうか。パソコン自体、会社だけでおなかいっぱいで、家ではめったに開けないし。
 でもなあ、なんかみんな楽しそうなんだよなあ、フェイスブックやってる友達。うふふ、あはは、って。いや、それはなんかちょっと違うけど、でもイメージとしては、mixiがユニクロで、フェイスブックがH&M、みたいな。だけどそのうちみんな、国産がいーよねって言って帰ってくる気がしてるんだけど・・・SNSというものが文化として残るならの話。でもそんなことないのかなー、最近は留学とか海外赴任とかしてる友達も多いし、やっぱりフェイスブックが主流になっていくの?うーんうーん。招待されるものでもなし、踏ん切りがつかずに指をくわえてそっちの方向(どっちだろう)を眺めている昨今。
 そう、漢字で登録すれば?というアドバイスももらったのですが、日本人留学生もいっぱいいたからネ・・・そのあたりの方々とおつきあいするのも結構大変でしたからネ・・・今となっては自分にもたくさん非があったというのがよくわかるんだけど、まあああいうふうにしか付き合えなかったし、きっと今も基本的なスタンスは相互に変わらないんじゃないかと思う。そうすると漢字もネ・・・いろいろとネ・・・
 さっきから「ネ」を多用してますが、なんか文章を和らげる効果があるのではないかと勝手に思って遣っております。これを遣う瞬間、愛すべき「陳さん」というパンダっぽいおぢさんが脳内にポンと浮かんでは消えています。ネ。
 はあ、何も考えずに思いつくことを端から書いた。起承転結?なあにそれ?ビバ、サブプライベート空間。こういう空間を愛するがあまり、フェイスブックにも飛び込めないのかもしれない。ネ。
| のたりのたり | 23:19 | comments(6) | trackbacks(0)
IMG_5273.jpg 震災以来お休みしておりましたが、ようやく落ち着きを取り戻してきた感じがするので、ぼちぼち再開しようかと。直接的には24日にあった中学の同窓会がすごーく楽しくて、書き留めておきたくなって。ブログやSNSのよさって、自分が経験したことをみんなと共有するっていうのももちろんあるけど、みんなと共有したことを各々が再現して、それを読んでもう一度、それぞれが違う角度からその経験をし直すっていうのも大きいなと、最近とみに感じるので。
 とりあえずは気軽に、箇条書きスタイルから。

17:55 集合時間を5分過ぎるも、集合場所の目安がことごとく閉店しており、全員難民化。超至近距離にいながら、「どこ?」「どこなの!?」と連絡を取り合う附属OB・OGが続出。

18:00 パディントンのストラップfromスコットランドを入手、テンションがこの時点ですでに制御不能に。先が思いやられるが、嬉しいのでどうでもよい。

18:03 卒業以来初めて会う子が一人だけ。中学時代は早熟ゆえにすべてがだるい、という感じだったのが、今はいろんなことが楽しそうで、すごく明るくて、こっちまで嬉しくなる。

18:15 どうにかみんなでお店にたどりつく。東南アジアふうのいい感じにカオスなビアガーデンは、夏の宵を楽しむ若人でぎっっっしり。あまりのぎっしり度とカオス度に一瞬パニックが出かけるも(←震災以降悪化)、みんなが非常に平和かつワクワクウキウキな雰囲気を醸し出してくれていたため、瞬時に落ち着く。プチ克服した気分になり、ひとりでテンションさらに上がる。

18:20 「2500円で3時間飲み放題」という破格さに、「きっと何かがないんだろう」とは予感していたわれわれ。お店に入った時点で「屋根と冷房がない」ということには気づいていたが、さらに「メニューに生が載ってない」ということに気づく。まさか・・・とは思いつつ、え、でも、2500円だしネ・・・という雰囲気も漂う。勇気を出した誰かが店員さん(ほとんど東南アジアの方々)に尋ねると、答えは「生、アリマス」!!やったー!祝祭的な大乾杯を交わす。

18:30 ビールはいいやという女子は結構おり、おもにカシス系のカクテルをいっぱい注文。隣に座っていたスコットランド帰りのA子さんはカシスウーロンをオーダー。すると、タイ人のおにーさんが持ってきたのは・・・ウーロン茶とカシスオレンジ。だ、ダイナミック!!え、混ぜれば同じじゃん的な!?ついつい大爆笑してしまったわれわれ。涙をふきふきはっと気づくと、おにーさん、明らかに相当ムッとしてる!初めて知った、東南アジア系の濃い顔で本気でムッとされるとかなりこわい!ご、ごめんね、悪気はなかったんです・・・でもこんながっかりクオリティ、大学以来だったんだもん!同じおにーさんが運んできてくれた、今度は正真正銘のカシスウーロン(ただし味はほぼカシス)を飲まんとするA子さんに、「気をつけてね!」と本気で警告してしまった私。器が小さい!おにーさんごめんなさい!

18:45 反対隣に座っていたYちゃんが、会話の途中で突然ツボにはまり、再起不能なほど笑い始める。取り残された向かいのMくんと私、ツボを教えてほしがる。Yちゃん、苦しい息の下から、一言。
「レンズが・・・ないっ」
その指さす先にはプロドラマー・Cくん。Cくんはプロドラマーなので、ロックミュージシャンなので、ロックな格好をしている。穴が開くほど見つめていても飽きない格好をしている。それはアーティストとして非常に重要な個性だと思う。髪の毛はA子さん曰く「かつらにしか見えないっ」というほどロング&ボリューミーであり(金のメッシュ入り)、その前髪はCくんの動きに合わせ、自在に顔の面積をコントロールする(鬼太郎もびっくり)。下唇にはピアスが施され、全体的に服装は黒く、どう見てもロック、Yes, He Rocks.(A子さんは無邪気に「レゲエとかやってるの?」と訊いていたが。)そして極めつきは、大きめの黒縁メガネ。今おしゃれ女子とかの間で流行ってるアレですよ。小顔効果があるやつですよ。Cくんはもともと小顔で色白なのに、そのメガネのおかげでさらに小顔&色白さが際立っており、やはりロックミュージシャンは違う、Yes, He Rocks・・・!と思いつつ、でもやっぱりこのセンス、一般庶民にはかるーくついていけないものがあり、内心みんな、その「ついていけなさ」を心のどこかでつつきまわしていたんだと思う。その矢先の、Yちゃんの指摘。
「Cくんの黒縁メガネ、レンズがないっ!」
Mくんも私も、沈没。お、おもしろすぎる・・・こちらに気づかず熱弁を(おそらくはロックについて?)ふるい続けるCくんのシャープな横顔にのっかったおしゃれメガネ、そこには確かに縁しかない!完全なる貫通、静寂、空白がそこに!ロックミュージシャンと貫通した空間、これをわれわれ庶民はいったいどう処理すれば!?以下次号。

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| のたりのたり | 23:52 | comments(4) | trackbacks(0)
何を書いたらいいんでしょうか。

私が震災を通じて痛感したのは、たった一つ。
自分がいかに卑小であるか、ただそれだけ。

今世間の多くの人が言っている、
無力ということとは、次元が違う。

11日から今まで、私は怖がってばかりいました。
身も心も自分自身のすべてをつかって、
自分自身のためだけに恐怖することしかできなかった。
仕事してても募金してても、心の奥底は、
ひとりよがりの恐怖だけでいっぱいいっぱいでした。

情けなくて涙が出そう。
自分はもうちょっと甲斐性があると思っていた。
大いなる勘違いでした。

だけどそれを知ることができてよかった。
どういうわけか、私は今生かされているから。
これから少しずつでも、成長したい。

次こういうことがあったとき、
すぐに落ち着いて論理的に考えをまとめて、
一人でも二人でもいい、周囲に安心を与えられる人になりたい。

大した理由はなくても確かな根拠はなくても、
ツイッターでつぶやくだけで、
あるいは言葉さえ発さずそこにいるだけで、
人に多少なりとも安心感を与えられる人がいるんだって、
今回のことで実感した。
そういうのは、持って生まれた性質もあるかもしれないけど、
でもやっぱり、その人の生き方の積み重ねに他ならないと思う。
そういう人に、私はなりたいです。

数えきれないほどの人が
ありとあらゆる災害で命を失ってきた、人間の歴史。
その人たちひとりひとりの命と私自身の命の重みは
当然ながらまったく同じ。
その人たちの命が、そこで不意に不本意に
失われてしまったからといって、
彼らの命に意味がなかったなんてこと、あるわけがない。
だから私も、卵のようにもろい人間の命について、
心配しすぎることはやめようと思う。
もろい命だからこそ最大限に生ききる、
そのためにという意味で、命への執着を捨てようと思う。

そして一つだけ。
以前も書いたように、私は不安障害を持っていて、
日常的に恒常的に、たぶん普通の人の何倍かは、
いろんなことの心配をし、不安を感じて暮らしています
(昨春あたりからだいぶ普通になってきてますが)。
たぶんいま東京で暮らしている人たちの、
今日あたりの不安の平均値のちょっと下くらいが、
私が日常的に抱えている不安の値じゃないかと。
地震が起きたその日も当然、
今地震が起きたら、と考えていたくらいなので。

そういう日々は非常にしんどいので、
自分でできる範囲の備えに具体的に取り組んで
不安を軽減する、ということはやってきました。
たとえば地震についての不安なら、
連絡の取り合い方だの家具の固定だのについて
家族にしつこめに提案してみたり。
だけどそういうのって、健康な人にしてみれば、
ちょっと迷惑・面倒であることがままあります。
実行するにはいろいろ面倒があるし、何より、
そんな不穏なことをわざわざ日常の中で考えたくない。
そしてそれは人間としてとても健全な反応です。
人間は過度の緊張・不安状態のまま日常を営めないし、
だからこそ私みたいな人には治療が必要。

だけど、今回の地震では、
こういう備えは実際すごく効果がありました。
家の中もかなり荒れて、この家具
固定してなかったらどうなっちゃってただろうね、
というような箇所が少なからずあった。

何が言いたいかというと、
我々不安障害をかかえる人々が存在しちゃってる以上、
世の中の人たちは「考え過ぎだよ」とか
「そんなこと考えてたら生きていけないよ」とか、
そういうおざなりの言葉で流すことをなるべくやめて、
我々が時々漏らす心底の不安が
ある程度現実的なものであったならば、
これを機にまともに相手をしてみませんか、ということです。
そこここにいる不安障害の人々を、
公じゃない常駐防災系啓蒙装置みたいなものとして
世間が受け入れてくれたら、ちょっとはうかばれるかも。

とても不謹慎な言葉をつかうけれど、
今がチャンスだと思っている人は多いはず
(これは不安障害の有無にかかわらず)。
不安を忘れていれば日常生活はこの上なく快適だけど、
火のないところに煙はたたない。
日常をおびやかす出来事というのは
社会にも個人にも訪れる可能性が必ず、必ず、ある。
いろんな「現実的な」「日常的な」不都合から
見ないふりをされてきたそんな不安の根本たちを、
一つでも二つでも取り除ける機運があるとすれば、
日本中が怖い思いをしている今しかない。

日常には戻りたい。
だけど、今感じている恐怖、不安、失望、悔しさ、悲しみ、
そういったものを忘れては、戻りたくない。
絶対に忘れずに、日常に戻る。

私が今ようやく書けるのは、それくらいのことです。
頭の中がまだ全然まとまっていないので、
これを読んでいやな思いをした方がいたら、ごめんなさい。
そしてこんな私を今生かしてくれている
ありとあらゆる力や人に感謝を。
今心が死んでしまいそうな人に、どうか同じような力を。
| - | 22:37 | comments(2) | trackbacks(0)
iPhoneがメールを一通も受信しないので、念のためこちらで。みなさんもくれぐれもお気をつけて。
| - | 19:59 | comments(4) | trackbacks(0)
特に何もしなかったけど、父の命日であった。
もう4年経つ。

彼は肺がんだったのでイレッサをつかった。
直接的には間質性肺炎で亡くなった。
訴訟で問題にされている時期よりもだいぶ後だし、
専門医に処方されたし、私はともかく
本人や母はきっちり説明もされていたんだと思う。
だから問題はない。
だけどやっぱり、心は乱れる。

でもそれはイレッサだから云々ということじゃない。
病気になるということは、
猶予なくありとあらゆる選択を迫られるということで、
その選択の嵐の中で、
本人も家族も医療従事者たちも、
多かれ少なかれ悔いを残す。
選んだ瞬間おそってくる悔いもあれば、
何年何十年たたないと気づかない悔いもある。

でもさらに言うなら、それは病気に限らない。
ありとあらゆる望まないことが、
それなりにがんばって生きている人間を
なんの断りもなく突然おそう。
そして平和な状態の時にだって
無理そうな決断を迫ってくる。

だからそれっぽい人たちは言う、
「その時に備えてしっかり考えておきましょう」
とかなんとか。だけど私は思う、
せっかくいま平和なのに、
そんなつらいことわざわざ考えたくない。
火事場の馬鹿力じゃないけど、
その時にならないと下せない決断だってあるんじゃないの?

だけどやっぱり私は今日も、
いつくるかわからないその時に怯えて暮らす。
忘れていられるほうが、嘘だと感じる。
だからって、答えらしきものが出るわけじゃない。
「自分だけは大丈夫」と思える人を羨ましく思うだけ。

愚かな生き方だなあと思う。
でも、それを恥じている自分が最も愚かだとも思う。
もう少し顔を上げて生きていかなくちゃいけない。
どんなに自分が小さく小さく小さく感じられても。

病気で死んでも災害で死んでも、
殺されても自殺しても生まれなくても、
その重みは同じであってほしいから。
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
心を(日記について)(たぶん)
入れかえたおんな、週末の出来事について書く。
・・・先週末の出来事について書く・・・。

土曜夜。

仕事、長引く。
順調に待ち合わせ時間を過ぎる。
遅刻する可能性を
あらかじめ幹事に伝えた気満々だったため
(じつは伝え忘れてたけど・・・)、
待ち合わせ時刻は無言のうちに過ぎる。
とうぜん、行方不明の子扱いされる。
携帯に残された着信とメール、いっぱい。
みんなごめーん!

盛大に遅刻しつつ、どうにか辿り着く。
でも遅刻しすぎて、滞在時間、賞味20分。
私はいったい何をしに行ったのか?
私はいったい何をしたかったのか?
みんなはもっと意味不明だったであろう・・・
みんなごめーん・・・

でもみんなの顔が見られてよかったよ!
それだけは声を大にして言う!


日曜昼。

昨晩の馬場の喧噪から一転、
池袋の高層階のフランス料理屋さん。
諸事情あって、婚活経験者たちのお話を聴く。
超人生勉強になりました・・・
よくわからないなと思ってたことが
じつはいっぱいあったからこそ、
理路整然とした説明に目から鱗が落ちまくりであった。

でもねでもね、
やっぱり今の自分には無理だと思った。
私は貝になりたいと心から思ったよ。
あくまでも今の自分が考えたことなので、
そこに希望は残っているわけだけれども。

自分が最も価値を置くことって何なのか、
今だけじゃなくて人生を通して
価値を置きたいことって何なのか、
しんけんに考えてみなきゃならないと思った。


月曜夕方。

「ソーシャル・ネットワーク」を観に行く。
ザ・アメリカ英語!の世界で、聴いてて楽しかった。
流暢な英語を聴いてると、
不思議としゃべりたくなってくる。

しかし男の人って、
どんなすごいことなしとげた人でも、
根底にあるモチベーションはただひとつ、
「おれを認めろ!」
・・・なんだなあ、と思った。

もちろん女にもその欲求はあるけど、
その因果関係の構図が
あそこまで単純ではない気がする。
なんかもっとこう、めんどくさいのよ、女って。

名を成す人に男性が多いのは
おもに社会システムのせいだろうと思ってたけど、
この単純な動機が、意外に強いのかもしれないですね。
四の五の考えずに、
「おれは認められてー!だからすげーことする!
 てゆーかおれはすげーことができるから
 認められてあたりまえ!
 すげーことができるのもあたりまえ!」
みたいな(あくまでもイメージ。
他意はナシ)自信のもと突っ走れば、
しぜんすごいことができてしまうのかもしれない。

ま、突っ走れないいろんな事情が
女性にはあるので、やっぱり
社会システムのせいだとは思うけどね。

私という女である人間として
こっからどういうふうに生きてくのか。
というシビアなテーマについて、
でも考えてかなきゃいかんのだなあということを、
いろんな側面から感じさせられた
週末だったのであった。
人間っていやねー。


以下私信。

D&S,
We've got the package about a week after the phone call. Thank you very much. Was East Coast really as bad as you've once told me?
| のたりのたり | 23:28 | comments(2) | trackbacks(0)
 そろそろまずい。新年のあいさつすらできなくなってしまう!・・・ので、おもーい腰を上げてようやくパソコンを開けた次第。あけましておめでとうございます。こんな私ですが今年もよろしくお願いいたします。
 しかしこんなに日記を書かなかったのはなんだかんだ言って数年ぶりかもしれない。非常にありきたりでなんですが、やっぱり働きだしたせいなのかなあ。
 twitterで情報漏洩しまくって某高級ホテルを泣かせたアルバイト女子大生がいましたが、ああいうの見聞きするにつけ、実は他人事じゃないよなと思う。それなりにまじめに生きてきた割に、びっくりするぐらい至らない部分やぽっかりと抜けている部分が自分にはあるんだなというのを、まあ前からわかってはいたけど、働き始めて改めて感じたので。
 そういう抜けてる部分って誰にでもあるんだと思うけど(志向や傾向ぬきには生きられない限り仕方ない)、だからそんなに慎重になることはないのかもしれないんだけど、やっぱりね。前述のアルバイトさんも学生だったからまあ解雇(たぶん)くらいで済んだわけで、社会人だったらもっと大事になってただろうから。右も左もわからない今は、慎重に大人しくしとくのがよいのかなと。
 でも実はそういうのは嫌いだし、この日記に何がしかの意味があるとすれば続けてきたことにしかないし、やっぱ書かないのはいけないよね、うん。制約がある中で書いてなんぼでしょう。そういう中にしか成長はないでしょう。ていうかなんかもう意地ですよ。今も書きながら、私はこれをいったいなぜなんのために?ってはてなが沢山飛んでますが、やっぱもうこれだけ書いたらなかったことにはできない。
 ・・・でも実はそういう観念的な理由以前に、単純に目の疲労がはんぱなくて、それで家ではしばらくパソコンをさわれなかったのだった。だけどこの現代に、目をつかわない仕事とか目をつかわない趣味とかがはたしてどれくらいあるというのか? 甘えてんじゃない、私の目。あと腱鞘炎ぶりかえしまくる私の手。
 今年は頑丈な人間を目指したいと思います。もとい、今年から目指したいと思います。いまいちど、今年もよろしくお願いいたします・・・。
| のたりのたり | 19:56 | comments(4) | trackbacks(0)
久々に渋谷とか来た!しかも金曜の夜の渋谷!救いようもなく混んでる……でもここんとこ家の近所ばーーっかりうろうろしてたから、なんか新鮮でよい。
しかし会社から直行すると、渋谷にいる人々の「解放感にあふれてます」っぷりに驚く。会社でやっちゃいけないありとあらゆることがあそこでは行われてる気がする。繁華街ってそういうことのためにも存在してたんだなあ。だからこそ、繁華街で働くって独特の大変さがあるんだろうなあ。
まったく関係ないけど、この間テレビをつけるなり「人間の祖先が馬だったとします!」と真面目そうな禿げ頭の教授に宣言されて、虚を突かれて聴き入ってしまった。シュールな前提だった。でもまあ面白かった。地デジに対応したら放送大学が観られるようになって、それの社会学の講義だったっぽい。
だけど正直、家庭で、テレビの前で、ずーっと観てられるほど面白い講義って、そんなにないよね。学問は間違いなく面白いと思うけど、なんの強制力もないのに、家で進んで一人で夢中になれるほど甘くはない。
仕事もしかり。明らかに面白いとは思うけど、契約とかお給料がなくて進んでやるかっていうと、たぶん絶対やらない。やれない。
そういう強制されなきゃできないけど絶対になされなければならない物事にお金をうまく絡めることで、世の中回ってる部分が大きいんでしょうね。お金の力って大きい。
そう考えると金は天下の回りものって本当だなと思うけど、でもやっぱり、貯めちゃうなあ。庶民でもぽいぽい気持ちよく使える時代にならないかなあ。
というようなことを、この間「バブルでGO!」というかなりしょうもないけど結構面白い映画をテレビで観て思った。バブルって悪くなさそうな時代だったな。「ほんとにこんなだったの!?」と母に思わず聞くたび、「誇張よ!誇張!」って言われてつまんなかったけど。あの反射的な否定にはなにかがある気がする。バブルを実はすごいエンジョイしたとか。
でも後世に迷惑かけてるようじゃいただけないけど、不安がない時代っていう部分は、ぜひとも取り戻したい。のちのち歴史の教科書で「世紀末で不安が世の中を覆い尽くした時代でした」とか一行で終わらされて、未来の子どもに「こんな時代に生きてたひとは損だったな、あと100年したら華の時代が来たのにさ」とか思われるの、癪じゃない? ほんとはもっと暗い時代なりに、楽しかったり喜んだり、精一杯してるのにさ。
しかしロゴ見た時から ん?って思ってはいたんだけど、Back to the Futureへのオマージュっぷりがすごくて、そういう意味でも好感が持ててしまう映画だった。あのスタッフが、SPって。映画界も複雑。
| のたりのたり | 01:27 | comments(2) | trackbacks(0)
 もうアメリカに住んでないので断言はしかねるものの、どうも今回の民主党の大敗は、国民の我慢が足りなかったような気がする。
 ティーパーティーとか、既得権益を守りたい裕福な人々のエゴにしか見えない。なのに「建国の理念に立ち返る」つもりで集まってるらしいから、なんというか、認識の差に驚く。
 誰にも平等に、幸福を自由に追求する権利を、っていうのがアメリカの建国の理念。だけどアメリカの黒歴史(私的超乱暴バージョン)では、「幸福を手に入れられる人の数には限りがあるので、この時期以降に移民してきた人はちょっと遠慮してください」とか、「もう満員なので、正直これ以上移民してこないでほしいです」とか、理念と矛盾することがたくさんあった。今回のオバマ政権への不平不満も、そんな矛盾のうちの一つなんだと思う。
 雇用が足りないのも税金の負担が増えるのも、すごく大雑把に考えてしまえば、人数が増えたから。仕組みとして幸福の絶対量が不足し始めた時代に、すでに幸福を手にした人々の多くは、自分の取り分を分け与えてまで、移民の人たちを支える気はない。すなわち、建国の理念を守り通す気もない。そういうことの表れに思えてならない。移民の人たちは「昔の自分」や「自分の先祖」の姿でもあるのに。
 もちろん民主主義と個人主義の国だから、幸福の追求もその結果得るものも、個人の努力や運次第、っていう大前提があっての建国の理念だとは思う。だけどさらにそれ以前に、アメリカは信仰の国。自由に追求したい最たるものは信仰だったはずで、建国の理念はキリスト教的倫理に拠っている部分がとても大きい。はず。
 だとしたら、アメリカ人はやっぱり、建国の理念を忘れちゃってる。自分の夢だけかなえばいいのか? 自分の暮らしがいちばん大切なんだもんって開き直ることが、倫理にかなったことなのか?
 「夢をかなえる」ことは、それを支えてくれる存在なしには不可能なこと。生きることと一緒。だけどアメリカの人は、「夢をかなえる」ことにばかり注目して、「夢をかなえさせる」ことを軽んじてるんじゃないかと思う。アメリカ建国当時はたしかに「夢をかなえる人」ばかりだったように見えるかもしれないけど、「夢をかなえる人」同士が助け合い支え合ったからこそ夢はかなったわけで、あの頃は「夢をかなえる人」は同時に「夢をかなえさせる人」でもあった。でもだんだん時代が下がって、「夢をかなえ終えた人」は、そのどちらでもなくなってしまった。本当は「夢をかなえさせる人」の役割をもっと積極的に果たすべきなのに、それを怠ってきた。そんな感じがする。
 もしくは、ある一定の分野では「夢をかなえさせる人」の役割を買って出すぎて、もう世界も国民もそういうアメリカのあり方に疲れちゃって、ここへ来て「もう自分の夢はかなったんだから、他の人はいいじゃん」っていう考えに拍車がかかったっていうのもあるのかもしれない。
 いずれにせよ、今回のアメリカの選択は、建国の理念と反対方向を向いてると思う。それでアメリカ国民が構わないなら、他国がどうこう口出しすることではない。だけどアメリカ国民自身が、「建国の理念」という観念自体にはいまだにとても誇りを持っていて、いろんなことの動機として持ち出すわけだから。やっぱりこれは、おかしいんじゃない?って、言いたくもなる。
 まあ、負け犬の遠吠えっていわれたら、それまでですけどね。だけど負け犬としては、オバマさんのカリスマ性の貴重さがよくわかるわけで、やっぱりもうちょっと我慢して大切にしてみればいいのになあ、と思う。世界中が格差社会のこの時代に、アメリカの舵の取り方には大きな責任がともなうってことを、もうちょっと自覚してほしい気がする。政府だけじゃなくて一般市民レベルでも。
| - | 01:02 | comments(0) | trackbacks(0)
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